心の傷−阪神淡路大震災の時に犯してしまった罪と

強迫神経症になった経緯

 

 自分は、1995年1月17日の阪神淡路大震災の時に、家の近くで発生した倒壊家屋の人を近所の人と助けに行ったのに、その家が火事に巻き込まれて、逃げ出して助けられずに結局「見殺し」にしてしまいました。
 その嫌な記憶・罪悪感から、その後何年という時間をかけて強迫神経障害(確認症候群)にかかる羽目になってしまい現在、「抗不安薬」に頼る生活になっています。自分が犯してしまった罪なので、一生この嫌な記憶・罪悪感・それから来る不安は続くでしょう。

 本当はこの事は隠しておきたかったのですが、同級生や移転前の職場の同僚等に偶然会った時などに、
「何で精神病になったん?(心療内科に通っているという情報だけがうわさなって伝言ゲームで話が大きくなって伝わっている。(;_;)) 」と言う事を説明するためと、

なんか最近少年犯罪のニュースなどで、
「人を殺したくなった」
「人が死ぬところを見たかった」
という理解できないようなニュースを聞くたびに、(心療内科に通っている人でも理解できないと感じています。)
「(助けに行ったのに)救助できずに結果として見殺しにしてしまった時に心の傷となって、こんな症状になる人もいるんだよ。」
(正確には、倒壊家屋に救助に入った時点では、まだ生きていたのか即死だったのかは分からないまま、燃えだして逃げ出したので、「見殺し」ではなかったのかもしれませんが、それは言い訳としか言えない。)

と言う事を伝えたくなりこのページを転載・公開しました。

 なおこのページは@niftyのサイエンスフォーラム内で発言した内容をシスオペさんと、ニフティ社より許可をもらい転載・公開します。

 内容が暗い話題になるのでこうゆう話が嫌な方や気の弱い方は行を開けとくので読まずに戻って下さい。

 

 

 

 

 

 

 自分は2000年に今の職場に移転後、職場の退場チェックが普通の人なら5分程度ですむのを、何度もガスの元栓や分析機器のスイッチを切ったことを異常ほどの不安から何度もしつこく確認したりするので30分から1時間かかるような状態になっていることを、職場の安全担当の人に気づかれて、勤務時間中に神経科に連れて行かれて、強迫神経障害(確認症候群)と診断されました。

 はじめは神経科って何?神経がおかしくなっているのかな?と思っていたので、精神科の名前が変わっただけだと言うことがわかった時はひどくショックを受けました。

 

 自分の場合は、阪神淡路大震災以降、水質や土壌の分析で、蒸留を行う窒素関係やシアンやフェノール類の分析を移転前の職場と移転後の職場で通算約5から6年ほど行っていました。ガスバーナーに火をつける作業を一日に残業などで多い時は、40から50回行っていました。(当然仕事が終わるのが夜の12時過ぎになることも何度もありました。)ところが自分は無意識のうちに「火」を怖がっていたんですよ。(後でわかったことでが.....)

 実は自分が住んでいるところ神戸市東灘区御影石町3丁目は、1995年1月17日の阪神淡路大震災の時に大火事が起きたところです。阪神電車が高架線でコケていて、その後ろで火事が起きている震災写真・映像があったらその場所です。

 あの日、震度7(後でわかったことですが)を経験した後で、家の外に出ました。

 近所の長屋が1階部分がつぶれていて、2階がその形のまま道路に向かって横ずれし道路向かい側の電柱に 後数十センチという所までつぶれていました。そこでその人の家族の人が(2階に寝てて助かったそうです)

「1階にお母さんとお姉ちゃんがいるんだ助けて」

と叫んでました。それで近所の人と弟とで、はじめは1階を持ち上げてできた隙間から助けようとして(人の力ではできるわけ無いのにね。みんなパニックになっていたの気づかずこれで時間がかかりました。これも悪いことをしたと思うことの1つです。)途中でできないことに気づき、残っていた2階部分の窓から入って、床をはがしていけばいいことに気づき、はじめは手で(どの家も家具が散乱して手工具を取り出すことができなかった。もっと早くのこぎりやチェーンソウ等の工具を誰かが持ってくれば良かった。これも悪いことの1つ)次は大ハンマー、ノコギリなどで、2階の床に穴を開けてんばりと1階の天井板が見えてきたところで、家が燃えだし、(先に火を消せば良かったんです。これも罪悪感の一つです。)はじめは窓の反対側の壁、そして2階天井部、両側の壁、入ってきた2階部分の入り口、と燃えだしてだれかが、

「家が燃えて倒壊するぞ」

といった声が聞こえた時には、助けに行った5人が無意識のうちに窓から逃げ出して「見殺し」にしました。このとき生き埋めになった二人が生きていたか死んでいたかはわかりません(声は聞こえなかったけれど生死を確かめるために姿を見ることもなく僕らは逃げました。)。(これが一番悪いことです。どうもその後の強迫神経症確認症候群の原因はこの記憶に有るみたいです。チェックの見落としで火事になったらどうしようから、機械が壊れたらどうしようにまで発展して行く過程を前の職場で経験しました。)

その後は2階が燃えて崩れ落ちるまで、火の中に飛び込もうとするその家の兄ちゃんをみんなで取り押さえるのに必死でした。

 さらに追い打ちをかけた記憶が火がバケツリレーで何とか火を押さえて一段落した後で見た光景で、火が下火になって赤や黄色の火が一面に燃えている中で、人が生き埋めになっていった場所だけが火の色が違うんですよ。燐光というのか体内の金属元素が燃える炎色反応なのか、青白い火が人の形で燃えている。近所の人と、「ここで一人埋まっていた、ここにも埋まっていた....そしてここは自分たちが見殺しにした二人....」と放心状態になって話していた記憶....(実はこの町は「火垂るの墓」の舞台でもあります。空襲であの兄弟の母親が死んだことになっているのが神戸市東灘区御影(石町か本町か中町かは書いてませれど)その本に書いてあった事が現実のものになって何十年もたってから同じ場所で起きたと言うことだねと近所の人と話し合った記憶もあります。)

 これを、蒸留をするたびにはじめは無意識レベルで、最終退場者チェックをする時には、「見落としで火事になったらどうしよう」と言う気持ちから、特に「ガスの元栓5カ所と大元栓1カ所」と「ホットプレート」「ウォーターバス」「電気炉」という風に不安から何度も確認するようになっていきました。

 嫌な記憶は忘れよう忘れようと思えば思うほどかえって思い出して、強い記憶として残るのですよ。

 

これが、1995年1月17日に自分が犯してしまった犯罪と、その後に強迫神経症になるようになった経緯です。

「目の前で人が死んでいった。」
「人が死んでゆくのに助けられなかった。」

と言う事がどんなにつらい事か、その後どのように心が傷つき・苦しむ事になるのかを、知って欲しくて、又、自分が犯した罪に対する贖罪のために、このページを作成・公開しました。



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地震の後、石屋川と御影小学校からバケツリレーをやりました。興味のある方は下の文字を押して下さい。

 3面張りの問題点バケツリレーをやってみて。

このような者ですが次のような「夢」を持っています。その為に、「自殺願望」が出てきても「夢」が叶うまでは生きていたいと思っています。

最確数法の器具の改善案

細菌試験で使う器具の改善案です。今のところ自分の勤務先では開発しても効果がない事から開発は中止になっています。誰かどこの企業・団体でもかまいません私の代わりに「夢」を叶えて下さい。